小林たかひろ物語-「祖父が被爆者と知った衝撃」-反核・平和への思いが、政治家としての「原点」

祖父・祖母と

 新年から配布を開始したリーフレットの、「小林たかひろ物語」から写真紹介・第2弾です。

 写真は、私の祖父と祖母。いつ撮ったのか忘れましたが、おそらく20代?だいぶ若いです(笑)

 祖父は、長崎で被爆しています。そのことを私が祖父から初めて聞いたのは高校1年生の夏でした。高校1年生の夏休みに、民主青年同盟・高校生班に所属していた私は、同じ高校生同盟員の仲間と一緒に、原水爆禁止世界大会に参加をしました。8月6日の平和公園というのは特別な空間で、それこそ日本中・世界中から平和の思いを持った人々が集まってきます。その感動を、お盆休みに帰省したときに祖父に話したところ、「孝宏、実はおじいちゃんなぁ、長崎で被爆してるんじゃ・・・」と。

 驚いたのは、私の父もその時初めて、自分の父親が被爆者だと知ったということでした。祖父は兵庫県・宍粟郡の生まれ育ちで、外に出たことはありません。どうして被爆したのか?祖父の話によるとこうでした。

 「8月1日に赤紙が来てのう、8月5日の夜出発で九州に向かうことになったんじゃ。ところが、広島を通るはずだったんじゃがなぜか広島を通れないというんで(後になって広島に原爆が落ちたからと知った)、山陰の方からぐるっと回って、九州の久留米駐屯地についたんが8月8日じゃった。」
 「次の日には鹿児島へ向かうはずが、9日に長崎に原爆が落ちたんじゃ。あの時は昼間なのに夕焼けみたいな空じゃった。」
 「その日のうちに、行先変更で長崎に救援に向かったんじゃが、そりゃもうひどいありさまじゃった」
 「わしに与えられた任務は長崎の大学病院の入り口で、助かりそうなもんだけを中に入れて、助かりそうにないもんや元気なもんを中に入れんようにする、門番のような仕事じゃった。これは辛かったぞ」
 「孝宏ええか? 母親っちゅうンは強いんやぞ。死にそうになった赤ん坊を抱えて『自分は良いからこの子を助けて!』ちゅうて詰め寄られた、あの時のお母さんの必死の形相は、今でも忘れることができん」と。

 この話を聞いた衝撃、そして自分が被爆者三世だったことを自覚したことが、政治家・小林たかひろの原点になっています。

 

 ちなみに、被爆者手帳を持っていれば、さすがに父も知っていたと思うのですが、その件を聞くと「昔は、被爆者というだけで差別されたもんで、自分は良いけど、子供や孫まで差別されるのは避けたかったから、手帳はとらなんだ」という話でした。
 その後、父の勧めと、戦後50年で被爆者援護法が大幅に改善されたことを受けて、当時の徴収兵仲間の証言もあり、被爆者手帳を申請、実際に取得できました。

 

youtu.be

  安全保障問題についての、日本共産党の政策については、党中央の公式YouTubeチャンネルに、「戦争か、平和か」と題した、志位委員長のインタビュー動画がありますので、そちらを見ていただくのがよろしいかと思いますので紹介しておきます。