まずはこれ
一部を引用
(毎日新聞の) 社説はこう続く。
「こんな時代(=大学が合併する時代)になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。大学教育の『質の低下』という積年の、
本質的な問題がある。(・・・) 経済成長や基準緩和の中で増え続けた大学(06年度学校基本調査で、国立87校、公立89,私立568)
は、今、適当な校数へのスリム化が課題なのではなく、真に高等教育の機関として機能しているか、内実を問われているのだ。
この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、大学の数を減らすだけなら、大学教育そのものが無用とされる時代を招来しかねない。」
この部分だけを読むと、大学生の学力低下は主として大学の責任であると解されかねない。
これは現場の人間としてはいささか異議のあるところである。
どの大学でも、あっと驚くような学力の新入生を迎えて仰天している。
「いったい高校まで何をやっていたんだ・・・」と責任を転嫁してもしかたがないから、中等教育の分の「おさらい」から導入教育(補習ですね)
をしている。
四月からの授業とあまりにレベル差があるので、入学前の三月から補習を始めている大学もある。
「新入生の学力」が低いのはどう考えても「大学の責任」ではない。
「だったらそんな学力の低い学生を大学に入れるな」というご意見もあろうかと思う。
なるほど。
だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、
日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。
話はそのあとだ。
これに対して、アルファーブロガーのdankogaiさんがこう反論
404 Blog Not Found ー 学力って本当に低下しているのだろうか?
これも一部を引用
「学力が低下しているのはなぜだ」
という設問が成り立つためには、当然「学力は低下している」ことが成り立っているというのが大前提なのだけど、
それは果たして本当なのだろうか?
私の「体感」では、学力はちっとも下がっていないどころか、格段に向上している。
しかしそれを語る前に、まず「学力」をきちんと定義しておかなければならないだろう。
私にとっての「学力」の定義は、読んで字のごとく「学ぶ力」、すなわち「わからなかったことをわかるようにする力」だ。はじめから
「わかっている」必要は全くない。極端な話、何も知らなくても、誰に聞いたらわかるのかを知っている人の学力は、
8割のことを知っていても残りの2割を誰に聞いたらいいのかわからない人よりもずっと学力は高いのだ。
人類の「学力」というのは、「自分で覚えている」から、「自分は忘れてもいいから誰か/何かにおぼえてもらって、
おぼえている人/ものの居場所だけおぼえておく」という進化の流れの中にずっといた。話し言葉から書き言葉。写経から活版。会話から電話。
そしてインターネットと検索エンジン....人類の学力というのはおよそ下がったなどないようにすら思える。
それでは、話を「人類」ではなく「日本人」、そして時代をせいぜい20年ぐらいに絞った場合はどうか?
やはり学力は格段に上がっているとしか思えない。特に「Web以前」と「Web後」、そして「Google以前」と「Google後」
では革命的な学力の向上が見られる。
どうも、かみ合っていないように感じる。
まず前提として、今の高校生にとっての大学入試を巡る状況がどう変化したかということを紹介
コバコバが高校を卒業した平成5年と、平成17年の18歳人口&大学定員数を比較してみる
18歳人口 4年生大学の定員
平成5年 198万人 55万人
平成17年 133万人 60万人
ようするに、18歳の春に大学進学を希望しても、
4人に1人しか入学出来なかった時代からほんの干支を一回りしただけで2人に1人が入学出来る時代になっちゃった。
しかも、この間の社会情勢の変化は、「4年生大学への進学」=「将来の安定」という時代から、
むしろそこそこの学力なら大学に行くよりも手に職をつけた方が良いという社会に変化してきた。
しかも、私大の高学費化はますます加速し、入学出来る学力がありながら泣く泣く進学をあきらめる18歳が急増した。(不況の影響も大きい!
)
つまり、12年前なら基礎学力を測る物差しとして重宝した「偏差値」の上から4分の1だけをうけいれて入れば良かった大学が、
上から半分どころか半分より上の18歳のかなりの部分に逃げられ、
おなじく相当数の半分より下の基礎学力しか身につけていない高校生をうけ入れ無くては定足数を満たせなくなったという事態が進行したということなのだろうと思う。
だから、内田先生の指摘するように「新入生の学力低下」は内田先生にとっては事実だが、
それは18歳人口全体の学力低下を意味するわけではなく、内田先生の大学に入学する「層」が低位な学力しか身につけていない「層」
に遷移しただけの話なのだ。
ということで、自分の経験を一般化し「1億総低学力時代」などと嘆く内田先生には「今までなら就職か専門学校に行っていたような
『大学が切り捨てていた層』を教育する機会を与えられたのだから、日本人全体の学力向上にこれほど貢献出来る話は無いじゃないですか♪」
と明るく励まして上げたい。
だって内田先生はご自分で「『低い学力』の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、
日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい」なんて、とても立派なことを言っておられるのですから。
翻って、dankogaiさんの指摘するように、全体としての学力向上があったのか?というと、、、それも甚だ疑問ではある。
「Web以前」と「Web後」、そして「Google以前」と「Google後」
と、dankogaiさんはwebの登場を持ち上げてみせるが、
そのwebの利用者が増えたらみんなが必要な知識に到達できるのか?なるほど、
確かに一昔前ならたどり着くのに週末の図書館訪問を待たなければいけなかった知識が、
googleさんにものの0コンマ数秒で教えてもらえるようになったわけで、
学校を卒業した社会人が学習をする機会は格段に増えたのは間違いない。
しかし僕の実感では、今まではメモ帳にでも書いて忘れないようにし無くちゃいけなかった知識が「いつでもwebで調べられるからいいや」
と、ドンドン忘れ去る習慣が身に付いてしまったという気もする。
さらに、もし仮にgoogleさんの教えたサイトが間違っていたら?
そんな時に正しい情報を選べるかどうかを養うのが「メディアリテラシー」ってことなんだろうけど、結局その「メディアリテラシー」
も基礎学力の土台があってこそだ。信頼に足る「教科書」や「教師の教え」という情報を「憶えておいて」「必要なときに引き出せる」
能力を前提にしなくちゃいけないわけだ。
(その肝心の『教科書』『教師』が怪しくなりつつあるという問題は、ここでは触れない)
ということで、来年には希望者全員大学入学の「大学全入時代」に突入するわけだが。しかし、
一方で経済的な問題で入学可能な学力を身につけながら進学をあきらめる18歳がうみ出される現実は、
社会全体の学力向上にマイナスである事は間違いない。
また、webの進化に遭わせた「新しい学力の形」を教育界がしっかり提起しない事には「教師をgoogleか何かと勘違いして
『辞書を引きなさい』と言われたら『じゃあ別の先生に聞きます』と言う生徒(そしてそれを嘆くだけのダメ教師)」
はますます増える一方だろう。
(「それを知りたければ、googleに『○○』と『●×』のクエリーを渡して、
なるべく信頼の置けそうなwebページを読みなさい。信頼の置けるページの見分け方は3週間前に授業で教えたよね?」なんて回答する教師は、
今でもいないだろうな~w)
と言うことで、無謀にも内田先生とdankogaiさんに、このエントリーをトラックバックしてみる。
コバコバの浅はかな論立てにどんな突っ込みが入ることか、、、
kobakoba the thoughtless Man
(↑最後はdankogaiさんの真似w)