京都市長選挙を終えて・・・

 951票差という悔しい敗北を喫した京都市長選挙が終わり、ボチボチと放置気味だったこっちのブログも再開させようと思っている今日この頃。

 まずは、選挙の最中に聞いたちょっと考えさせられる話。

 今回の選挙では「教育格差」の問題が、後半戦で大きな争点に浮上した。
 オール与党・大連立陣営に担がれた候補者は、前教育長の肩書きで、教育に強い候補ということを売りにしようとしていたわけだ。
 ところが、この京都の教育行政、実はとんでもなく保護者の評判が悪かったわけなんだなw

 特に話題を集めたのは「教育格差」の問題。
 学校整備費が前教育長の下で2割もカットされる一方で、小学校の統廃合を契機に新築した学校には特別に豪華な校舎、豪華な設備、教員の過配、という措置が行われ、わざわざその小学校に入学させるために住民票を移す保護者が続出するなどの人気ぶり。

 特にわかり易い格差は「給食の食器」で、京都の小学校では9割の学校がいまだに昔懐かしい「アルマイト」の食器を使っているのに、新しい小学校では強化磁器の食器を使っていて、食器の裏側にはご丁寧に学校の校章が刻印されているというのだ。

 「アルマイト」の食器の特徴は、熱い汁物をよそうと、熱がすぐに食器に伝わって、例えば「うどんなんか熱くて素手で持てない」ということと「スープなんかすぐに冷めて不味くなる」しまうということ。
 さらに、酸に弱くてアルミの金属成分が食べ物に染み出してくることや、熱くて手で持てないために子供が「犬食い」になりやすく、子供の姿勢を悪くするとして、先割れスプーンと共に10数年前から全国で問題視されて使用中止が相次ぎ、いまや全国で1割に満たない学校でしか採用されていない代物だ。
 それが京都では9割も残っていて、しかも、一部の学校の統廃合に協力してくれた保護者達へのご褒美と言わんばかりの差別的な教育格差の象徴となっていたのだ。

 そんな話を演説会で訴える中村候補の話を聞いた後、あるお母さんがドイツで生活をしていたときの話をしてくれた。

 Hさん「アルミの皿は軽くて割れないし、調理する人には楽なんでしょうね、子供よりも調理員さんを大事にするのって、学校の主人公は子供達なのにおかしいですよね、、、」
 コバコバ 「そうですね、実は、同和団体からの先行採用をしていた名残で、調理員から文句を言われるのを嫌っているってのもあったりするんですよ。あまり表立って言える話じゃないですけどね」

 Hさん「私ドイツにいたとき、子供の小学校の給食の食器が陶器のお皿だったんです。一度、子供がそのお皿を割ってしまって、私お金を持って子供と一緒に学校に謝りに行ったんです」
 コバコバ「うんうん」
 Hさん「そしたら、学校の先生は『そのお金は受け取るわけにはいきません。それから、貴女のお子さんは今日たくさんのことを学びましたそのことを誉めてあげてください』って言われたんです」
 コバコバ「それはどういう意味で?」

 Hさん「先生はこう言ったんです『あなたのお子さんが今日学んだこと、1つ目、お皿は落としたら割れるということ。2つ目、お皿が割れたら、周りの友達が助けてくれるということ。3つ目、割れたお皿の破片は危険だと言う事。4つ目、大事にしていたものが壊れると言うことは涙が出るぐらい悲しいということ。これだけたくさんのことを学んだあなたのお子さんを、お母さん、貴女は誉めてあげてください。そうすれば学んだことを忘れなくなって身につけることができます』って言うんです。ドイツの教育がどれだけ子供中心化ということを身をもって感じました」
 コバコバ「なるほど。さすがにヨーロッパは進んでますねぇ」

 なんて話をしながら、(皿の話だけに)さらに、割れた食器を買いなおせば、陶器の職人さんの仕事づくりにもつながるだろうし、ドイツなんかはそういう伝統産業の振興という側面もあって陶器の食器を使ってるんじゃなかろうか?などと勝手に想像して、そこからさらに進んで、清水焼なんかがある京都の小学校でこそ、そういう施策を取り入れて行くべきじゃないだろうか?なんてことも思いついた。
 まぁ、小学校の給食食器に清水焼って言うのはあまりに贅沢っていう感想をもたれちゃうかもしれないけどネ(笑)

 ってことで、この「アルミの食器」問題、選挙が終ってとある市会議員さんに話を聞いたら「今度の選挙で散々ネタにさせてもらったので、おそらく4年以内に全部の学校で強化磁器の食器に置き換わることは確実だろう」とのことだった。
 なんせ、8年前の選挙では「小学校のトイレにトイレットペーパーが無い!」ってことを大宣伝したら、投票日1週間前に全小学校のトイレにトイレットペーパーが設置されたという実績がある。我々のことを「揚げ足取り」と言いつつ、選挙の争点にされるのを極端に嫌うのが京都の教育行政の特徴なのだw

 こんなふうに、たとえ負けても、公約の一部を実現させてしまうのが選挙という審判を経ることの意義だと思う。

 もう一つ、負けたけれども公約の一部を実現させた実例。

 昨日開かれた、京都市国保の運営協議会で、国保料を値下げするという方向性が考え方として示されたという。
 国民健康保険料1世帯1万円値下げは、中村和雄候補の目玉公約の一つだ。
 額はともかく、値上げ続きだった京都市国保料を値下げの方向に舵を切らせたのだ。 これも選挙を経て京都市民の審判が下ったことを受けての変化だろう。

 小さなことかもしれないが「国民が政治を動かす、新しい政治の流れ」を感じる。

 コバコバも、来るべき総選挙、2年後の府知事選挙、そして4年後のリベンジ目指して「悔しい!」の言葉はしばらく封印することにしますか!

 (まぁ、たまに思い出して悔しがるのは許してくださいwww)