泣ける「しんぶん赤旗」

 こういう記事を読むと、 ジーンと涙が出ちゃうんだよなあ・・・
 コバコバは通勤の電車の中で堂々としんぶん赤旗を開けて読む派なので、この前の土曜日がたまたま車で出勤の日で助かった。 満員電車で新聞読みながら涙流してる32才男子・しかも読んでいるのが「赤旗 、、、さすがにヤバイでしょw

 ってことで、とりあえず全文引用!(赤旗インターネット版には残念ながらこの3面の記事は掲載されていない) これ読んで涙がでない党員は、自分の感受性をもう少し豊かにする努力をした方がいいとさえ思う。(おおげさかな?)

同僚・上司と普通に話せるのがうれしい

石播思想差別 勝利和解

東京・千々岩榮さん(59)


「春が来たみたいです」

 千々岩さんはしみじみと語ります。職場の雰囲気はここ数年で大きく変わっていました。ついに会社が「反省の意」を示しました。

 「昼めしを食いに行きましょうよ」。同僚の言葉に、千々岩さんは 「えっ」と驚きました。
 「おれと食べて、迷惑が及ばないのかな」ととまどいながら、社員食堂に行くと、同僚は二人分の席をとって「ここ、ここ」 と手招きします。一昔前には考えられませんでした。別の同僚も、食事に誘ってくれました。食べながら、よもやま話に花を咲かせました。
 「ごく当たり前のことなんですよね。その当たり前のことが、この石播では許されなかった」

 石播は日本共産党員や支持者を"企業破壊者"だといって、徹底的に差別してきました。インフォーマル(秘密労務)組織を通じて、 「口をきくな」「目を見るな」「香典を受け取るな」と仲間はずれにしました。

 千々岩さんは、高校を卒業し1965年に入社、開発部門で働いてきました。
 職場で日本共産党員と親しくなると、会社の上司に「かぶれているのか。手を切れ」と懇々と説得されました。 「共産党は要求を取り上げて頑張っているのに」と憤り、「こんな話には応じられない」と、 自らも労働組合の青年部協議会の役員に立候補し、労働条件を改善しようと訴えました。

 激しい差別にさらされます。研修を受けさせてもらえず、一つひとつが独学です。多数の特許を申請し、独創的なアイデアを出して、 携わった開発が機械学会で表彰されたこともありました。
 一昨年の愛知万博で高い評価を得た燃料電池の主要機器の開発にも貢献したと自負しています。
 しかし、社内での表彰に、千々岩さんだけはいつもはずされます。 同期入社の仲間が課長や課長代理に昇進しているいまも低い等級のままです。


子どもにまで

 千々岩さんが一番つらかったのは、同僚と仕事のこと以外の交流ができないことでした。仲間が飲みに行くときも誘われません。 20年ほど前の年末のこと。同僚全員が突然いなくなりました。別室で仕事納めの乾杯をしていたのです。一人しらふで門をでました。

 会社のレクリエーションに当時小学生だった息子を連れていきました。競技の後、 インフォーマル組織が弁当や飲み物を用意していましたが、千々岩さん親子にはありません。「なんで」という子どもに、「さあ、 街でおいしい物食べよう」と明るくふるまいました。
 「おれは間違ったことは何もやっていない。おれが頭を下げる必要はない」という思いが、千々岩さんを支えました。

 門前で党のビラを配布していて、手で払いのける労働者はごく数人。ビラを受け取らなくても多くがそっとうなずいていきます。 「たとえ口をきいてくれなくても、気持は通じる」。千々岩さんの労働者に寄せる信頼が変わることはありませんでした。
 差別されると分かっていても、会社の行事には出席しました。会社の運動会で、飲食物の出ない千々岩さんに、「おい食べろ」 と周りの目を気にしながら、そっと焼き鳥を差し出す労働者がいました。外に飲みにいくと目につくからと、夜、 誰もいない部屋で酒をくみかわす場を設けてくれた上司もいました。


7000人を首切り

 共産党員への差別は、自由にものが言えない職場をつくり出しました。
 1986年の七千人首切りをはじめ、無法がまかり通りました。上意下達の企業運営はやがて経営困難をもたらし、 橋りょう談合も摘発されました。
 石播は「自由に本音で話し合える職場」を掲げるようになりました。
 いまではビラを配っていても、はばかることなく受け取っていく若い労働者が多くなっています。

 「おれは、会社の顔色をみて立ち回るような生き方はしなかった。それで信頼してくれる人がいるのかな」千々岩さんは、 少し照れくさそうに語りました。
                       (赤旗記事ここまで)

 四の五の論評はしない。とにかく、これ読んで泣いとけ!

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