視点・論点「まん延するニセ社会科学」

 この動画にインスパイアされて、脊髄反射的に創ってみた。  今は反省している。 ーーーここからーーー  みなさんは、「ニセ社会科学」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。  これは、見かけは社会科学のようだけれども、実は、社会科学とはとても言えないもののことで、「新・自由主義」や「市場経済万能論」などとも呼ばれます。  『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、「小泉改革」や、『経済学ってそういうことだったのか委員会』(竹中平蔵・著)などの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。  例えば、皆さんもよくご存知のように、『社会主義の国では官僚主義・独裁政治がはびこる』『悪しき平等主義の日本は、最も成功した社会主義国』と盛んに言われ、ひところは大手出版社もこぞって関連書籍を売り出すほどのブームになりました。『日本経済=官僚主導・社会主義』本がよく売れたのは、もちろん、『社会主義=悪しき平等主義』という主張に政治学・経済学的な裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。テレビや雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。  しかし、実は、『ソ連社会は社会主義国』『日本のような一億総中流社会は、最も成功した社会主義社会』であるという社会科学的な根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大手出版社までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。  いまは、新自由主義、すなわち市場競争にすべてを委ねることが経済の発展に最も有効であるという論説に、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、新自由主義と言っても競争に勝ち残れるのはごく一部の大企業・大資産家だけですから、経済の主役である個人消費の担い手の多くの労働者はかえって困らせてしまい、せいぜい一部の人々をほんの少し豊かにする程度の効果しか期待できません。  いま、このような、社会科学のようで社会科学ではない、「ニセ社会科学」が蔓延しています。  こういった「ニセ社会科学」のなかに、しつけや道徳に関わるものがあります。その話をしたいと思います。  よく知られている例の一つは、『戦後の民主主義教育が子供のイジメや非行を招いた』といういわゆる「教育基本法=悪」説です。しかし、この説に、社会科学的に信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセ社会科学」です。  もちろん、どんな教育論でもすべての子供を東大に入学させることができるわけではありませんから、どこかに限界はあるでしょう。しかし、それだけなら、新しい歴史教科書でお勉強してもも同じです。教育基本法学力低下の原因かどうかとは、まったく別の話なのです。  ところが、この説は、与党政治家や教育委員会関係者に広く受け入れられています。全国各地で、教育問題タウンミーティングや藤岡某氏の講演会が開かれているようです。  もちろん、イジメや非行、学力低下を問題だと思う人は多いでしょうし、子供を持つ保護者の多くはそういう風潮を何とかしたいと思っているのでしょう。  そういうみなさんにとって、「教育基本法=悪」説が一見、福音に思えたことは分かりますが、社会科学的根拠のないものに飛びついても、仕方がありません。  そもそも、イジメ問題を何とかしたいというのは、子供のシツケの問題ではなく、イジメ問題が起こるような子供にストレスを与える教育環境や、イジメの発生を把握できない教員配置の少なさの問題だったはずです。まして、イジメによる自殺が頻発するのが困ると考えるなら、子供をとりまく競争的な環境環境をなくすことや、教師の目の届く範囲に子供の数を制限する=30人学級を実現するべきでしょう。教育基本法を引き合いに出そうとしてはいけません。  もう一つ、今度は、「格差社会」にまつわる奇妙な説を紹介しましょう。  労働者の賃金に格差をつけると、競争によるインセンティブが与えられ豊かになり、同一労働同一賃金を支払うと、競争のインセンティブが減退し貧乏になってしまうというのです。  賃金というのは労働者の所得のことですから、これは、不公平な処遇をすれば、労働者が意欲をもって働くようになり豊かになるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。  派遣労働者正規雇用の労働者も、さらに取締役会に参画する経営者も同じ人間です。雇用形態がどうであるかは、同じ労働をしていれば、生み出す「価値」に違いはありません。『汗水流して働くことより、マネーゲームで儲ける奴のほうが、高い収入を得て当然』など、いい大人が信じるような話ではなかったはずです。ところが、これが広く信じられています。「ほりえもん」さんという有名人が『この世にお金で買えないものはない』といわれると、それだけで、『それはそうだ』だと思い込んでしまう人は、意外に多いらしいのです。  この説が、いくつもの企業で、賃金抑制の材料として使われていることが問題になっています。滅私奉公を教えるのに、格好の教材と思われたようです。  しかし、本当にそうでしょうか。  この学説は、たくさんの問題をはらんでいます。  まず第一に、明らかに社会科学的に誤っています。「社会主義は時代遅れ」が言われる今、「国際競争力をつけるのが大事」だからといって、ここまで非社会科学的な話を、事実であるかのように教えていいはずがありません。  しかし、それ以上に問題なのは、労働者の賃金を、労働者の生活を保障することよりも、個別の企業の利益の最大化と株主への利益配当を優先するように求めようとしていることです。  賃金は、価値を生み出す労働の対価ですから、その決定は、あくまでも、価値に見合った水準を考えなくてはならないはずです。働いていない株主に、汗水流して働いて実際に価値を生み出している労働者よりも高い配当を払うべきなのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。  「新しい教科書をつくる会」が「様々な教育問題」の根拠を「戦後民主主義の問題」に求めるものだったのと同様、ここでは、格差社会がもたらした貧困の問題の根拠を「日本経済が中間所得総を大事にしすぎた」ことに求めようとしています。それは大企業・大資産家によるデマゴギーです。  「格差社会」も「様々な教育問題」も、戦後一貫して政権を担い続けた保守政治家=現時点では自民党公明党の責任であって、戦後民主主義労働組合運動に責任を押し付ける筋合いはないはずです。  さて、「ニセ社会科学」が受け入れられるのは、社会問題を解決してくれるように見えるからです。つまり、ニセ社会科学を信じる人たちは、社会科学が嫌いなのでも、社会科学に不審を抱いているのでもない、むしろ、社会科学を信頼しているからこそ、信じるわけです。  たとえば、新自由主義がブームになったのは、『政府による規制よりも市場競争にゆだねた方が、経済は発展する』という説明を多くの人が「社会科学的知識」として受け入れたからです。  しかし、仮に、誠実な政治家に、『市場競争は経済の発展にいいのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。  『市場競争といってもいろいろな側面があるので、中には経済にいいものも悪いものもあるでしょうし、経済にいいといっても分野によってはなにか悪いことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。  それが政治家的な誠実さだからしょうがないのです。  ところが「ニセ社会科学」は断言してくれます。  『市場競争は良いといったら良いし、政府による介入は悪いといったら悪いのです。また、平等な処遇なぜ良くないのかといえば、競争を阻害するからです。ワーキングプアーの賃金を生活保護水準以下に引き下げれば、生きるために必死に働く労働者が増え、国際競争力が高まるから、良い傾向なのです。』  このように、「ニセ社会科学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の社会科学を身につけた政治家には決して期待できないものです。  しかし、パブリックイメージとしての政治家は、むしろ、こちらなのかもしれません。『政治家とは、様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』政治家のあるべき姿とはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。  そうだとすると、「ニセ社会科学」を信奉する政治家は真面目な政治家よりも政治家らしく見えているのかもしれません。  たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、政治の世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「政治判断」なのです。二分法は、デマゴギーに他なりません。  「ニセ社会科学」に限らず、自民党民主党かといった2大政党論的思考で、政権交代だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』『それに基づく投票行動』それを大事にするべきだとおもうのです。 ーーーここまでーーー  読み直しもせずに一気に書いちゃいました。  ツッコミをくれるのは嬉しいんですが、師走の忙しさでまともな返答が出来ないかもしれませんのであしからずw